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本記事の筆者 牡丹です。
幼少期~小6の卒業式の日まで場面緘黙症でした。
場面緘黙症は、「緘動」を伴う場合があります。緘動は、「動くことができなくなる」症状です。
すなわち、緘黙・緘動どちらも発症している人は、特定場面で話すことも動くこともできません。人形のように見えてしまいます。
筆者は、緘黙に加えて緘動も重かった過去があります。
本記事では、筆者の経験談をベースに、緘動についてご紹介していきます。
情報不足の「緘動」
『緘動』については、現時点ではあまり説明がされてないと感じてます。
緘動についてネット上でサーチすると、‘’『場面緘黙症』には、緘動を伴うことがある。‘’というような軽い説明が見られます。
場面緘黙症の書籍も『緘黙』についての説明がメインになっています。
ですが、緘動は『動くこと』ができない症状のため、とてつもなく不便で、つらいものです。
さらっとした説明では、見過ごされてしまうような気がして不安です。そして、これからは、『緘動』にもスポットが当たってくれればと願います。
個人的には、場面緘動症という、一つの不安症として独立して捉えても良いくらいだと思ってしまいます。
その上で、緘黙症状のみであれば『場面緘黙症』。
緘黙症状、緘動症状どちらもある場合は『場面緘黙症』と『場面緘動症』というイメージです。
「話せない」に加えて「動けない」
「緘動」の症状を持っていると、本心では動きたくても、身体が全く言うことを聞きません。学校に行くとピタッと動けなくなるのです。
周りからは、「何もせず、一日中じっとしていて楽そう」と思われていました。
「いろんなことをわざとサボってる」と思われ、「牡丹は、みんなが掃除しているときもサボっててずるい」とも言われました。
でも、本人にとってはたくさんの苦しみや葛藤が一日中続きます。
朝から放課後まで我慢を重ね、しかもその苦しみを一切顔にも声にも出さず、下校時間が来るのを待ち続けるのです。
帰宅したときは、毎日身も心も疲弊してました。
そして、また明日も明後日もずっと同じことをやり続けないといけないという惨めさでいっぱいです。
緘動症状を持っていると、このような学校生活でした。
・校内を歩くこともできない
・靴を履いてグラウンドに出ることもできない
・体育のとき体操着に着替えることもできない。授業に参加もできない。
・給食を食べることもできない
・喉が渇いても水筒をあけれない
・プリントに文字を書くこともできない
・お手洗いにも行けない
・掃除もできない
・かゆいところがあっても掻けない
・鼻をかみたくてもかめない
・虫が近くにいても追い払えない
・放課後になっても、他に誰かが教室に残ってたら、その人が帰るまでは帰れない
と。
とにかく何もできないんです。
他者の助けなしでは動けない
もし、動きを伴う行動をするとなれば、他の人の助けが必要でした。
例えば移動のときは、先生や周りのクラスメイトが私の手を引いて連れてってくれました。
椅子から立ち上がることもできなかったので、立たせてもらうことから、お世話してもらう状態でした。
また、自分で座ることもできなかったんです。
誰かが座らせてくれるまではずっと立ってることとなり、長時間立っていて足が痛くてたまらなかった体験もよくしてました。
遠足のときも、自分で歩けなかったのでクラスメイトに長距離長時間、手を引いてもらうというお世話をかけてしまいました。
ある遠足の帰りのときに『やっぱりもう自分で歩いて。バイバイ』と、手を引いてくれてたクラスメイトが筆者の手を離しました。
筆者はその瞬間からその場に立ち尽くし動けませんでした。
もう、帰れないと思いました。
でも、「一人で歩けない自分が悪いので、置いてかれるのは仕方ない」とも思い絶望しました。
その後、10分ほどしてから他のクラスメイトが筆者を迎えに来てくれた時は、涙が出そうなくらい、安心しました。
「緘動」は『学校に居る間は、他の人に動いてるところを見られてはいけない』という魔法に取りつかれてる感覚です。
誰一人見ていない時は
基本的に学校では動けない「緘動」の症状ですが、学校内でも「確実に誰からも見られていない」とわかれば、動けるのです。不思議ですよね。
だけど、学校は、集団行動が基本なので、実際そのようなタイミングはありません。
筆者は教室で鉛筆を動かして書くという行為もできなかったので、担任の先生の提案で、テストを一人別室で受けることになりました。
「確実に誰も見ていない」パーティション空間が確保された途端、緊張がほぐれ、動けました。
しかし、「いつ誰がこの空間に入ってくるかわからない」「もしかしたら誰かがこっそり見ているかもしれない」と思うと、また身体が固まってしまう繰り返しでした。
「緘動」で、特に苦しかったこと
身体面の苦しみも我慢
学校に居る間、激しい腹痛や頭痛が襲ってきても、それを誰にも訴えることができず、自分で保健室に行くこともできず、薬を飲むこともできませんでした。
緘動の症状により、表情すら出すこともできなかったので、顔で体調不良を訴えることも難しかったのです。
また、暑いときに上着を脱ぐこともできず寒いというときに上着を羽織れない状態なども、すべて我慢している以外、方法がありませんでした。
あるとき、休み時間にクラスメイトが紙飛行機を飛ばして教室で遊んでるとき、紙飛行機が筆者の目に入ってしまったことがありました。
その日も筆者はいつものように、自分の席に動かないまま座っていました。
そして、急激に目の中にナイフが入ってきたような激しい痛みを感じ、何が起きたのか理解できませんでした。
クラスメイトが飛ばした紙飛行機の先端が、筆者の眼球を突き刺したようです。
瞬間的な出来事で、とにかく痛く、しばらく眼も開けられない状態でした。
叫びたいほどの痛みでしたが、場面緘黙症なので声は出せません。
紙飛行機で遊んでいたクラスメイトたちも、筆者の目に紙飛行機の先端が直撃したことは認識していたようで「許してな」と言って紙飛行機を取りにきました。
幸い、目に機能的異常は起きなかったのですが、本来なら『痛い』と口にして、保健室行きの出来事です。
こんなときも、我慢するしかなかったのです。
命の危険さえ感じるときも
『緘動』という大敵は、本当に恐ろしいものです。
緘動症状と命。どちらが優先されるのか。
考えさせられるエピソードがありました。
小学校の低学年のときの校外学習の日。
目的地に学年全員で、歩いて向かいました。
筆者は、その日もクラスメイトに手を引いてもらいながら歩いていました。
校外学習の帰り、車道を挟んで反対側の歩道に渡るときがありました。
皆が、車が来ないことを確認しながら、向こう側の歩道へ渡ります。
私たちのクラスが渡り始めたとき、車がこちらに向かってきました。
先生が『皆!車が来たから急いで渡りなさい』と注意喚起。
皆が急ぎ出した、その瞬間。
筆者の手を引いてくれてたクラスメイトと、筆者の手が離れてしまいました。
そこで、筆者は道路のど真ん中で立ち止まりました。
「皆、急いで渡ってくのに私だけ止まってしまった。」
でも車は近づいてきます。
車の運転手からも筆者の姿は見えてるとは思いましたが、その車は速度をあまり落とすことなく近づいてきてたので、とてもこわい思いをしました。
その瞬間以降は、今はもう記憶がないのですが、事故に遭うことなく帰ってこれたので、車はちゃんと止まってくれたのだと思います。
このとき「最悪、命の危険があるようなときでも、学校の人が見ている前では自分は動けないのか?」と驚愕しました。
緘動が、命を守る行動すら抑制してしまうなんて、どれほど恐ろしいのでしょう。
また、万が一、地震や火事など災害が突然、学校で起こった際は本当に危険です。
実際に、そのようなことは当時、幸いにも起きなかったのですが、考えさせられます。
「重い緘動症状を抱えている場合、緊急事態のときでも、学校という場所であれば逃げることができなかったのか?」
「誰かが手を繋いで逃げてくれなければ一人置いてかれたのか?」
どんな重大事態のときでも緘動症状が護身よりも勝ってしまうなら、大変恐ろしいことです。
さらに筆者は場面緘黙症でもあったので、こんな緊急事態でも「助けて!」と叫ぶこともできなかった可能性が考えられます。
逃げないといけないのは頭でわかってても、学校という場所では動けず、一人だけ逃げられず残されてしまうかもしれない。
そしたら…その先は、文字にはできません……。
緘動と緘黙というハンディをダブルで持っていたら、なおさら危険だと思いました。
もしかしたら、本当に命の危険を感じたときだけは、緘動症状があっても人によっては逃げることが、できるのかもしれませんが、これに関しては正直わからないです。
ともあれ、「もしものときの対応策の確立が重要」ということは間違いないでしょう。
「牡丹の真似」ゲーム
学校に来ても、ただ椅子に座って石のように固まってる筆者を、周りは変な目で見ていました。
そして、「牡丹みたいに、ずっと動かないゲームやってみよう」と、筆者の真似をして、動かず過ごすゲームで遊んでいるクラスメイトが居ました。
「ダメだ。動かないでいるとか無理やん。」とゲーム自体は毎回すぐに終了していましたが、そうやって遊びで自分の真似をされることが、惨めでなりませんでした。
筆談やジェスチャーすらできない
人間のコミュニケーションは基本的に言葉を介すのが一般的ですが、話せないなら筆談やジェスチャーという方法がありますね。
ただ、残念なことに緘黙症状にプラスして緘動症状があると、これらも叶いません。
ある日、親に自由帳を用意してもらいました。「自由帳で先生やクラスメイトと、せめて筆談ができたら」という親の思いが詰まった一冊の自由帳。
その自由帳は筆者の机上に一日中ありましたが、結局何も書くことはできませんでした。
とにかく「学校で動くこと」が、できなかったのです。
「手」に出たストレス反応
筆者は、あるときから2本の指を、強い力でこすり合わせることが癖になっていました。
今考えれば、ストレスが原因だったのかもしれません。
当時は、≪ストレス≫という概念も単語も知らない時期。
いつしか学校に居る間、こらえきれなくなると指をこすり、つらい気持ちを抑えることが定着してました。そうするとなぜか落ち着くようになってしまったのです。
この癖にやられた箇所の皮膚は、常にそこだけ真っ赤でした。痛くてずっと、ひりついてました。
先生には見つかってしまい『その癖やめなさい。ここが真っ赤になって手がおかしくなっていくよ』と怒られました。
それでも簡単にはやめられませんでした。
どんなにつらくてもその気持ちを吐き出すことができなかったので、指を痛いほどこすることで、何とか落ち着かせてたのかもしれません。
「物」と化した「人」
筆者は、校内を移動するとき、先生や同級生に手を繋いでもらってました。学校では、自力で歩けなかったからです。
その状態が定着していたので、いつしか、【牡丹を連れていく】ではなくて、【牡丹を持っていく】と、表現をされるようになっていきました。
学校での筆者は、「人」ではなく「物」と化してるんだなと強いショックを静かに受けました。
周りの同級生は特に悪気はなかったと思いますが、やはり耳が正常に聴こえている以上、傷つくのです。
動けなくて「物」みたいに見えるのもわかりますが、緘動という症状を持つ「人間」であることは、忘れずに接してもらいたいというのが当事者の本音です。
学習は家に持ち越す
授業中も、じっとしてることしかできなかった筆者は、先生が黒板に書いた内容を、自分のプリントに書き写すこともできません。
みんなが一生懸命書き写す間も、何もできないので「サボり」と言われていました。
緘動症状が重かった当時は、家にプリントを持ち帰り、帰宅後に仕上げることが日課となっていました。
授業中はなるべく先生の板書内容を暗記して、家では覚えている範囲でプリントに書き込みをしていました。
図工も授業中はできないので、家に帰ってから作品をつくることになりました。音楽や体育は家に帰ってからというわけにもいかないので、実質できない状態でした。
学習環境も、一人だけ特殊になってしまうのが実態でした。
帰りたくても帰れない
下校の時間。大抵の子は、さっと帰ります。
筆者も、学校で話せず動けずの状態は、とてつもなく苦痛のため、一秒でも早く帰りたかったです。
でも、そうもいきませんでした。教室内や、教室付近の廊下に誰も居なくならない限り、帰れませんでした。
先生が『今日、居残り学習をやっていく人の名前を言います!』と、アナウンスするとき。居残り学習をするクラスメイトと先生が、放課後も長時間教室に居ることになります。
自分が帰れる時間は「居残り学習終了後の誰も居なくなってから」になるので、何時に帰れるかわかりませんでした。
また、居残り学習でなくても、教室や廊下で放課後にずっと遊んでいるクラスメイトが居た場合。
彼らが帰宅するまで筆者は、帰れずでした。「お願いだからみんな早く帰って。。」と思っていました。
自分が確実に帰れるまでの時間、とてつもなく長く感じていました。
筆者がランドセルを背負って教室を出れるのは、先生も職員室に戻り、クラスメイトが誰一人いなくなってからでした。
まとめ
緘黙に加え、緘動という症状は危険とも隣り合わせです。
緘動という症状を抱えながらも、毎日学校に行き続けることは、本人の心身に異常をきたすことでしょう。
実際、筆者自身、「学校に行かない」という選択が許されなかったので毎日学校に行って耐え続けましたが、後にc-PTSDなどの二次的な精神疾患も引き起こしています。
緘動を持つ本人を、周囲の理解や対応なしに、ただ学校に行かせるという選択肢は、考え物です。
本記事を通して、少しでも緘動理解のヒントとなれば幸いです。
コメント
“面白い”ほど「自分と共通することばかり」で、全部の記事を読んでしまいました。(以前のブログですが)
その後言いたいことがかなりあり文章を書いて用意していましたが…
ネットでの経験上、どうしても「嫌がられる」ことを懸念し苦心しなかなか書き込む勇気が出ず、半年以上は経ってしまいました。
>命の危険さえ感じるときも
学校でそういった(命に関わるような)シチュエーションに巡りあった場合…
当時ですが、自分も授業中などに何度も考えたことがありました。
その時だけサッと動いて逃げるつもりでした。
動けないというより、「あえて動かないようにしている」に限りなく近い感じなので、そういうつもりでいるならその時は動けるということになる。
だから不安などは皆無。
しかしながら、先生はもしそういうことがあった時は忘れずに誘導させるようにと皆に呼びかけていた。
余計な忠告。。(自分の場合は)
実際、そのようなシチュエーションに巡りあったことはありませんでした。
命に関わることではないが、非常に苦手なシチュエーションや嫌なシチュエーションに巡りあったことは何度かある。
その時だけは実際に自ら動くことをしました。
1度大声でしゃべってしまったこともあります。
皆が本当は(家では)普通だとちゃんと理解していたのは、そのことがあったからだったのかもしれない。
今は家族らに本当にできない、即ち命に関わらるようなことになってもあこれこれできないものと思われており、
放っておいたら命を失ってしまうかもしれないなどと思い込まれている。(派手な誤解)
>学習は家に持ち越す
当方学校に行っていながらもほぼ「全授業受けない(見学)」ということになっており、何もしなくて良いことにされていたので、当時学校で苦しいことはあまりなかった。
それもそれで良くない。
「授業受けない」は良くないでしょう。
家族に学校行く意味がないものだと思われ、終いには学校に行くことをさせてもらえなくもなってしまった。
(とある3つの大きな理由があり、学校には何としてでも行きたかった)
体育・音楽以外は一応参加できていたというのは、こちらからしてみると「良かった」ことだと思える。
辛くてもちゃんとクラスメイトの一員をやれていたわけ。
言いたかったことはそれ。
大概の人は「授業中何も言わない動かない=勉強ができない」と見なしますが、(異論がある人もいそうだが)個人的にはそれは違うと思う。
成績の数字が出ず(実績となるものが得られず)「周りの人」に理解されない。理解しているのかどうかわからない。ほぼそれだけの話。(学校以外の場所でやったものを提出するなら話は別)
周りの人とともに生きていくことを望んでいない身としてはどうでもいいようなこと。
何も言わない動かないことで得られないものは学校の勉強知識ではなくて、「人」とのコミュニケーション力。いろいろいる「人」との会話スキル。
ところで数日前、母校の小学校を見にいったら…
誰もいない時間だがなぜか校門が見事に開いており入っても良さげな雰囲気だったので、思い切って入ってみた。
…
動けていなかったはずの場所なわけだ。そこで自由に動けている。この不思議な感覚にたまらなく感動した。
動いていたら行っていたであろう場所を巡り回ったり皆がそこでしていたことをしてみたりし、いちいち楽しくてしかたがなかった。。
「行っていたであろう場所」、その場所に思い入れがないことが何か切なくも感じた。
「そこに思い入れがある」その世界線が本来のものであったはず。
いつか校舎の中にも入りたい。(校舎の扉も開いていたがさすがにそこまでは入らない)
最初の一行で終わらせておけば間違いないのでそうしようかとも思いましたが、せっかく用意していたので、ある程度書き込みました。
↓自分
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